価値観の話

自分はモテたいから生きるのかもしれない


モテたいという欲求は比較的低次な欲求だと思っていた。もっと高尚なる価値観から派生した動機でしかないと考えていた。もっと根底にある価値観を見出して人生のコンパスにしようと思った。


だから、後悔したくない、健康でありたい、誰かに勇気を与えたいと言った価値観を明文化できた時には、ほぼ不可侵なこれ以上分割できない価値観に辿り着けたと確信していた。これらの価値観はモテたいという欲求よりも高次で高尚なものだと信じて疑わなかった。


しかし、燃え尽きて鬱転して上の欲求、価値観は全て消え失せた。健康でありたいとも後悔したくないとも、誰かの人生に影響を与えたいとも思えなくなった。ただただダラけて生きる事に集中したかった。でもそんな中でも、生殖の欲求だけは衰えなかった。誰か依存させてくれる、疑似恋愛の夢を見させてくれるようなアイドルは居ないかと探し回ったのである。あれ程までに恋など善く生きるために不必要だと考えていたのに。不思議なものだ。自分でも信じがたい仮説が浮かび上がる。つまり、自分の中で最も高尚で高次な欲求はモテたいという価値観であると言う仮説。生物である以上、生殖の本能に抗う事は得策では無いのかもしれない、その欲求を受け入れてどのように変換、昇華させるかが重要なのだろうか。